「問題を問題視しない」の実例と新説「問題はギフトである」

REICO

問題と思っているのは誰?

問題を問題視しない。

これが出来たら、大概はハッピーになるのですが
「問題視しないことが、どういうことなのかが分からない」というお声もいただくので、ちょっと実例を出して説明してみますね。

裸足の少年

少し前の話。
我が子が突然「靴を脱いで歩きたい」と言い出したことがありました。

それに対して私は

え?
靴下汚れる…
買ったばかりの靴下…
何か刃物になるようなものを踏んだら足に怪我をするんじゃないか…
変なもの踏まないかな…
汚れた靴下で玄関上がられたら大変だな…
まずは私が家に上がってタオルを敷くか…

これらが頭の中を駆けめぐりました。

でも、我が子は嬉々として靴下で歩くことを懇願してきます。

なんとか諦めてくれないかなぁと思いつつも
やりたいことをやらせてみたい自分もいる。

体験してみないと分からないことも沢山あるよね
案外、将来靴職人になるのかもしれないし
あるいは体についての独自のメソッドを開発するのかもしれないし…と
最後に念押しで我が子に聞きました。

少年漫画の世界

私 「ほんとうに本当に、靴下で歩いて帰りたいの?」

我が子 「うんっ!(幸せそうな笑み)」

私 「よっしゃ、分かった! 靴脱ごう。」
私は、とりあえず腹をくくりました。

私 「ところで、なぜに靴下で歩きたいの?」
我が子 「くんれん、くんれん!足が速くなるための訓練なんだよ。足を丈夫にするんだ。」
私 「…ほほう。」

我が子独自の理論が展開。
その日、家に帰るまでの10分くらい、我が子は靴下のまま歩きました。

次の日の覚悟

そして、翌日
「今日も靴脱いで帰りたい。靴下も脱ぎたい。裸足がいい。」と我が子。

そう来たか。
昨日だけの気まぐれじゃなかったのか…。

いや、でもこれは本人の人生。
親は邪魔したり、諭すんじゃなく
子供がやりたことをサポートするのみ!

私もさらに覚悟を決めます。

私 「靴も靴下も脱いで帰ろう。裸足で帰ろう!素晴らしいじゃないか!」

…これから毎日裸足で帰るのか。
ちょっぴり恥ずかしいな。

我が子を裸足で歩かせているお母さん誕生か。

ははははは。
ま、いいか。
勇ましい親子だ。

もし足を怪我したとしても、その時考えればいい。
本人も今まで靴で守られていたことが分かるだろう。
痛くなったら靴を履くだろうし
そうなっても、ならなくても
子供には、本人がしたい経験をさせてあげよう。

そんなことを思いながら、裸足の我が子と帰りました。

新しい扉

そして、翌々日。

我が子 「裸足で帰る!」
私 「OK!」

三日目となれば慣れたもんです。
我が子の靴と靴下をあらかじめ用意していたカバンに入れ
「裸足で嬉々として歩く子供連れのお母さん」像も板について来ました。

扉の向こう

すると歩いて数分
「あ、やっぱ靴履く。はやく靴だして!」と子供。

大好きな虫を踏みそうになって
慌てて靴を履きだしました。

なんと、我が子の裸足物語は三日で幕を閉じました。

問題意識が消えた結果

この話で何が言いたいかというと

もし、裸足で歩きたいっていう子供の気持ちを正論で抑え込んでいたら
子供は毎日のように
「裸足になりたい」 を訴え続けていたんじゃないかと思います。
親の気持ちを変えようと奮闘し、拗ねたりもしていたかもしれない。

そして、私は毎日のように
なんとか我が子の気持ちを変えようと奮闘していたかもしれない。

互いに 「これは問題だ!なんとかしなくちゃ!」モードに入り
戦い、疲れ、問題は肥大化していただろうと思います。

これが「問題を問題視している」状態です。

でも、「裸足で歩きたい」を問題視するのではなく
子供と私の愉快な冒険なんだ!としてみたら
そして、その覚悟を持ったら
問題は、あっという間に消えていった。

つまり、私が「裸足で歩く我が子」を問題だとしなくなったので
私の世界で問題と感じる事柄自体がなくなった。

そんな感じです。

問題視している者の問題

問題が起きた時
まずは「本当にこれは問題なのだろうか?」

そんな風に問いかけると
実は問題ではなくギフトだったりする場合があります。

「自分は何者なのか」

その輪郭を教えてくれて

しかも、その枠を広げられるチャンスだったりもする。

問題はギフトである。

これが私の答えです。

問題を問題視しない
のスタンスが少しでも伝われば幸いです。

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